見たくないものをみたくない権利と言い,ウクライナ避難民のペットに対する特別措置と言いなんだか,自分勝手な権利主張が増えたなぁと思ってしまう。
いや,権利意識が芽生えてきたのは凄くいいことだと思う。
権利主張は権利意識がないと起こらない。
権利主張が行われることによって,時代に即した人権というのも生まれる。
だから,権利主張が悪いとは言えない。
ただ,何故だか知らないが,権利意識や権利主張が自分勝手な欲求を押し通す為に使われているような気がする。
これが裁判に発展して,白黒はっきりつくのであればまだよいのだが,SNS上での論争のみで鎮火しているから,ただただ不快になって終わる。
どうやら,彼らは権利主張というものを自分の欲求を叶える根拠になる万能薬とでも思っているのだろうが,残念ながら,公共の福祉による制限を受ける。
公共の福祉とは,所謂みんなの利益の為に多少の権利制限は許してねというものである。
相対する権利同士を必要最低限の制限で済むように上手く調整する機能である。
冒頭の例で言うなれば,見たくないものを見たくない権利をむやみやたらに認めれば表現の自由なんてあったものではないし,ウクライナ避難民のペットに関する特例に関しては狂犬病を持ち込まれないようにという国民全体の利益と相対していると言ってよい。
両者相手を考えればわかるだろう。
どうかんがえても負ける()
それをものの見事にお気持ち表明で乗り切って強引に認めさせてしまうのが現代だ。
何故こんなことがまかり通るかというと簡単で,裁判を通していない。
つまり,公式(国家)による公式解答がないからやりたい放題なのである。
日本人は元々権利意識が低いというのは様々な先行研究で明らかになっているが,
それが変わりつつあるのかもしれない。ただし,あれだ。
ちょっと間違った方に向かっている。
そんなきがするのだ。