Abit

自由になりたい学生の雑記ブログ

毒親育ちへの無理解と正論の矢

f:id:unknownknow:20211201020429j:plain



ー目次ー

 

 毒親育ちは理解されない。

 

大抵は「あなたの為を思って言ってくれているのよ」と返されて終わる。

 

こちらの辛い,苦しいという感情はそっちのけだ。

 

なるほど,

”あなたのため”

ならば

今自分の抱いている感情は無視されても良いのか。

それって,一方的なお節介ではなかろうか。

 

毒親の分類

 

 毒親にも色々なタイプがいる。

 

典型的な虐待型

 

f:id:unknownknow:20211201015615p:plain

 

 さらに暴力を振るわれる暴力型,放置されるネグレクト型

がある。

前者には性被害が伴うことも多く,”虐待”ときちんと認知されている。

救済措置も一応存在しているし,理解も進んでいる。

 

最近出てきた精神的虐待型

 

f:id:unknownknow:20211201015652p:plain

 これは中々厄介で,未だに理解が進んでいない

 

所謂過干渉言葉の暴力,圧力等々が被害として挙げられる。

 

一時期話題になった教育虐待もここに分類する。

 

 話題にはなる。

 

しかし,残念なことに理解は進んでいない

 

理解が進まないのは何故だろう(その1)

 

その原因として虐待が内在化しているという点が挙げられるだろう。

 

基本的にこういった精神的虐待が進んでいる家というのは一見すると普通の家庭であることが多い。

いや,むしろ評判の良い家庭かもしれない。

 

だから,虐待が行われているなんて外からはわからない。

 

子供がSOSを周りに出しても,信じてはもらえず。

f:id:unknownknow:20211201015443p:plain「いい親御さんじゃない。親孝行しないとね。」

 

なんて言われる。

 

そんなことばっかり言われたら,もう周りに助けを求めなくなる

どんどん内在化は進行してゆく。

三者のメスも入らなければ,援助もない。

悪化の一途をたどるしかなくなる。

 

理解が進まないのは何故だろう(その2)

 もう一つの原因として挙げられるのは,

虐待のパブリックイメージが固定されている点だろう。

 

 ”虐待”と言って思い浮かべるのは先述した暴力型であり,真っ先に精神的虐待型を思い浮かべる人は少ない。

 

それは

虐待の定義が精神的な攻撃や過干渉といった所まで

広がっていない

というのが大きい。

 

 例えば,

いじめは相手が嫌だったらいじめ

 

と言うように

 

抽象的かつ被害者の気持ちに注目した定義がなされており,

 

その対象範囲というのは人によって違う

 

だからこそ,いじめの定義の際には相手の感情も慎重に考慮する。

 

行為と言うよりは被害者の気持ち重視な定義であると言える。

 

さらに行為の定義が抽象的な為に

より広範に個別具体的なケースを認定できる。

 

 

しかし,虐待はきちんと法律によって定義が決められている

行為規範とでもいうのだろうか。

 

だから,

被害者の感情以上に行為の内容が認定においては重要視

される。

 

 暴力は暴行罪だし,ネグレクトは保護責任者遺棄罪(あってるかな?)。

犯罪だから,虐待と認知される。

 

では,教育虐待は?過干渉は?

それに対応する法律がない。

 

だから,どうしても虐待と認知しにくいのではないだろうか。

 

大人になったらわかるという切り捨て

辛さを訴えても

 

 「あなたも大人になったら,そのありがたみがわかる。(だから文句をいうな)」

 

と言われて切り捨てられる。

 

話を聞いてすらもらえない。

酷い時は

 

「親に従うと言う事もあなたが決めたんだよね?それは貴方の責任でしょ?」

 

とも言われる。

いや,ド正論ですが…

 

正論て他人を傷つけるという典型例だよねこれ。

 

寄り添ってほしかったし,辛いという感情を受け止めて欲しかった。

 

それなのに,こんなことを言われたら,言われ続けたら…

もう,理解されることなんてないなと思ってしまう。

 

中々リアルで毒親サバイバー同士の接触はない

(内在しているのと,核家族化により家庭の話をする機会も中々ない。)

共有できる人がいないと

全世界敵!

となってもおかしくはないし,そうしたらもう一家心中を起こしてもおかしくはない。

人は味方が一人いるだけで大分救われる。

 

 

理解は望まない。でも否定はしないでくれ。

 過干渉に現在苦しんでいる僕はそう思っている。

 

理解されなくても構わない。

 

寧ろ理解してもらえないというのは

その人が幸福であったことの証明である。

 

それに,これは経験しないとわからない。

でも,経験してほしくはない。

だから,理解できなくても良い。

 

ただ,

つらいとか苦しいとかそういう感情を無視して

親不孝だの自己責任だの

正論の矢を連射しないで頂きたい。

 

思ってもらう分には構わない。

 

口に出さないでくれ。

 

僕はそれしか望みません。