ー目次ー
理不尽だらけの世の中
世の中は理不尽だらけだ
どんなに努力したとて望み通りにはならないし,あろうことか自分が悪くないのに損害を食らうこともある。そんなん酷いよ!なんて思う事なんてしょっちゅうだ。しかし,それでも社会で生きていくためにはこれらに耐える必要がある。社会で生きるには理不尽への忍耐が必要不可欠なのだ。
不平等は学校を出れば当たり前
高校を出るまでは比較的平等にことが進む。少なくとも制度上はそうである。
出来る限り平等なるように,言い換えれば先鋒と後方で不利益,利益にならないように扱われる。
しかし,高校を卒業すると等々制度上も平等の概念は消え失せる。
試験問題の使いまわし,オンラインでの共謀可能等々リモートの促進に伴いさらに平等というものは幻の存在になる。残念ながら,これらは”ずる”ではなく,”戦略”になる。
責められないのである。
手段を選んでいたら,手段を選ばない人間に追い越される。それが社会なのだとひしひしと感じている。
人と関われば平等や対等はない。
魚はどんなに弱い魚でも,小さい水槽にいると弱者と強者に分かれてしまうらしい。これは人間でもそうだと思う。人がいれば,暗黙の了解のうちにある暗黙の上下関係が生まれる。これは,同級生,社会的に対等であるとされている人達の中でも起こりうることである。複数人の仲良しグループの中でも序列が決まっているのが最たる例だ。
人は,人との交流の間に無意識に相手を評価し,自分との力関係の比較を行っているのではなかろうか。
これは言い換えれば人と関わる上で平等や対等はないのではなかろうか。
また,人は怠惰な存在だから,すぐやりたくないことは人任せになる。
そうなると,必然的に真面目そうな或いはちょろそうな人の方に仕事が回ってくる。そもそも仕事の内容というのは人によって違うから,負担という抽象的なメモリでしか比較が出来ないというのもあって,対等に割り振られるというのは珍しいのではなかろうか。
まとめると,社会との交流において平等や対等は幻に等しい存在であるのだ。
理不尽と立ち向かう
社会は理不尽であふれている。だから,理不尽に耐える必要がある。しかし,我慢してばっかりだと潰れてしまうし,舐められるとどんどん理不尽が降ってくる。
だから,一定のレベルの理不尽には立ち向かわねばならない。
しかし,立ち向かうには必ず向かい風が立ちふさがる。
’常識”とか”みんなやっている”とかそういった言葉が追い風として,矢として立ち塞がる
そこと戦える人って凄く強いと思う。重くて堅い意志がないと飛ばされてしまう。
自分には無理かもしれないけれど,そこは凄く憧れるのだ。