Myung Chun / Los Angeles Times via Getty Images
ウィル・スミス氏が彼の妻の容姿をいじったクリス・ロック氏を平手打ちしたことが世界中で物議を呼んでいる。
アカデミー側も現在調査を行い,どうやらウィル氏を処分する手続きを開始したようだ。
発端がどうであれ,列記とした暴行であることに変わりはないのだから処分は妥当だと思われる。(個人的にはね)
この事件の所為でどんな作品がアカデミー賞を受賞したのか
さっぱりわからない状態になってしまったのは残念なところだが,
日本において
「容姿いじり=ダメ」という風潮が出来上がってきているという事を知れた
のは価値があったのかもしれない。
今回はそういう話である。
ー目次ー
1:女性に対するブスいじりが最近なくなってきた。
僕が小学生の頃なんかは,結構女性芸人に対するブスいじりはあったように思う。
テレビで大久保佳代子さんが滅茶苦茶いじられていたのを覚えている。
テレビがそういう風潮であったが故に,学校でも割とブスいじりのようなものはあった。
「ブスにはブスと言っていい」みたいなそんな感じだったのかな。
逆にそれで苦しめられて,整形依存に苦しんでいる人は今でも沢山いるし,
僕自身も容姿のコンプレックスを勉学で補填しようとしてとんでもないことになった。
結構,当時の風潮による負の遺産はいまでも根強い。
ただ,いつからかブスいじりと言ったようなものが見られなくなってきた。
「ブスいじり=面白くない」
という風潮が生まれてきたのだと思う。
これは恐らく,反ルッキズムの兆候が芽生え始めていた証拠なのだろう。
日本におけるこの風潮がいつから始まったのかはわからない。
多分今のような炎上というわけではない気がする。
発端がなんだったのかはわからないが,
SNSの普及に伴って大人数の声が束になって社会に届くようになったことが
大きいのではなかろうか。
一つ一つの声は小さくとも,束になればそれは大きな声となりて社会を変える。
小学校の教科書に載っていた「スイミー」とはまさにこのことかもしれない。
2:時代は変わる。価値観も変わる。
時代の変遷や社会の風潮に伴なって価値観が変わる事は前別の事件にて取り上げた。
社会の風潮が変われば,不謹慎のラインも変わるのだ。
今までは不謹慎としてみなされていなかったとしても,
これからは駄目になる事もある。
かつては日本でもクリス氏の行ったような揶揄は咎められるようなものでは
なかっただろう。
それが,今では咎められて暴力さえも正当化されるような問題として
捉えられるようになった。
きっと,これは日本人にとって一歩どころか十歩前進なのかもしれない。
★過去の記事に関してはこちら
3:国によって価値観は違う
歴史学科では,
「現代の価値観で過去の事象に判決を下すのはナンセンス」
と教えられる。
これは時代が違えば価値観も違うのだから,
現代の価値観を以てして事象に対する善悪を決めてはならない
と言う事だと思う。
僕も仮面浪人の時にそう教わった記憶がある。
これは,過去の事象だけではなく海外での出来事もそうかもしれない。
このウィル氏のビンタ事件に対するアメリカでの評価は日本とは真逆だそうだ。
端的に言うなれば,「ウィル氏の方が悪い」という判断である。
これは恐らく,日本にはない価値観や考え方に基づいた評価なのだと思う。
だからこそ,アメリカでの風潮に対して日本の価値観をもってして
ナンセンスと批判するのはまた違う。
勿論,「No war」をはじめとした世界各国に共通する価値観が存在することも
否めない。
母国の価値観を以てしてナンセンスと批判してはいけないとなると
「ではロシアの侵略行為に対しても批判してはならないのか」
となりかねないので,注意が必要である。
何事もほどほどが大事。
4:我々はきっと時代の転換期にいる
SNSの普及に伴って我々の価値観は大きく変化した。
今まで聞こえてこなかった叫びが可視化されたことによるだろう。
急速に価値観が変化することにより,
それに置いて行かれる人は古今東西老若男女どこにでも存在する。
今は丁度社会の風潮についていける人とおいていかれそうな人が
半々位なのだと思う。
だから,物議をかもすことも多いしトラブルになる事も多い。
中には疲れてきた人もいることだろう。
それはそうだ。
ついこの間まではOKだったものがいきなり禁止に
されたら誰だって困惑する。
自分がそれを不快に思っていたのならともかく,
特になんとも思っていなかったらきっと窮屈に思えるだろう。
”賛成”の人が多数いたら”反対”の人は淘汰される。
議論になっているということはきっと賛成派も反対派も半々だからこそ
なのかもしれない。
きっと,僕たちは時代の転換期にいる。
そう思うとちょっとわくわくしてくるのは僕だけではないだろう。